【奈良・明日香】わずか11文字から読み解かれた、1400年前の時計台。「水落遺跡」について、奈良文化財研究所・西田紀子さんに聞く

日本に残る最古の時計台。その姿を、私たちは1400年近い時を越えて見ることができます。

奈良・明日香村の「水落遺跡」。『日本書紀』には、後の天智天皇となる中大兄皇子が、斉明天皇6年(660)に水時計「漏刻」を造り、人々に時を知らせたことが記されています。その記述は、わずか11文字。

しかし、1972年の発掘調査をきっかけに、柱や石組み、導水施設などの痕跡が見つかり、考古学や建築史などの研究によって、1400年近く前の時計台の姿が具体的に解き明かされてきました。

そして2026年7月、「飛鳥・藤原の宮都」がユネスコ世界遺産に登録され、水落遺跡もその構成資産のひとつとなりました。

その登録を祝い、この遺跡を読み解いてきた現代の研究者たちへの敬意を込めて。
奈良文化財研究所の西田紀子さんに解説していただきながら、1400年近く前の人々が築いた時計台「水落遺跡」の姿に迫ります。

飛鳥の中心部に残る水落遺跡。現在は静かな田園風景の中にありますが、1400年近く前、この場所には時計台が建てられました。設置されていたのは、水の流れを利用して時間を測る「漏刻」(水時計)です。

撮影:上山好庸

飛鳥に残された、日本最古の時計台

「石敷き」から読み解く、古代の時計台の構造

奈良県高市郡明日香村大字飛鳥。水落(みずおち)遺跡は、飛鳥の眺望地点として著名な「甘樫丘」の東側、南から北に向かって流れる飛鳥川の東岸、そして日本最古の本格的寺院である「飛鳥寺」の北西に位置しています。この一帯は、古くから「飛鳥浄御原宮跡」に推定されていた広範な地域の一画に含まれ、まさに遺跡の宝庫ともいえる場所です。

現在は、住宅と田園が広がる静かな場所です。飛鳥川のせせらぎも聞こえます。ここがかつて日本の政治の中心地だったとは、にわかには信じがたいほどです。

水落遺跡を訪れると、まず目に入るのが、斜面に沿って広がる石敷きです。長方形に近い敷地に沿って設けられた溝には、大きな石が敷き詰められています。

奈良文化財研究所の西田紀子さんに案内していただきながら、その意味を伺いました。

「飛鳥の遺跡巡りの中でも、水落遺跡は少し不思議な場所だと思います。足元をご覧いただくと、大きな石が敷き詰められているのが分かります。この石は、飛鳥時代の人々が実際に敷いたものです」。

「この場所は斜面になっていますので、土が流れないように石を張っています。そして、この石張りの台で囲まれた場所全体が、日本で初めて作られた時計台の跡になります。発掘調査によって、ここに日本最初の水時計が置かれていたことが分かりました」。

時計台が建てられていたとされる、一辺22.4m、高さ1mあまりの方形の基壇状の土盛り。周囲には、一辺1m弱の大きな石を貼った緩やかな溝がめぐらされています。中央の水時計を置いた部分を除き、柱が建てられていたとされる24か所には、柱位置を示す柱が現在も立てられています。柱間は約2.74mで、正確に等間隔に配置されています。

では、1400年近く前の石が、なぜこれほど残っているのでしょうか。

「発掘調査では、当時の位置のまま残っている石もありました。一方で、転落してしまったり、風化してしまったりして、石そのものが失われている部分もありました」。

「この地域で採れる花崗岩質の石なのですが、石が置かれていた場所に、石の表面だけが膜のように残っていたんです。調査した研究員は、それを『モナカの皮みたいだ』と表現したそうです」。

「石がなくなっていても、その輪郭が残っている。その痕跡を追うことで、元々どこに石があったのかを確認することができました」。

失われた石そのものだけでなく、その痕跡も手がかりになります。発掘調査では、そうした痕跡を一つひとつ読み解きながら、当時の姿が明らかにされていきました。

「飛鳥時代の石がそのまま残っている場所もありますし、失われてしまった場所についても、同じ形ではまる石を探して復元しています。実物の石を使いながら、当時の姿を再現しているということです」。

そして、実際に石敷きを目の前にすると、その大きさと精密さに驚かされます。

「これだけ大きな石を一つひとつ運び、これだけきれいに段を作って張り付けるというのは、かなりの労力が必要だったと思います。ここからも、飛鳥時代の人々が非常に緻密な工事を行っていたことが分かります」。

『日本書紀』の記述。「皇太子初造漏剋、使民知時」、つまり「皇太子(中大兄皇子)が漏刻(水時計)を造り、人々に時を知らせた」と記されています。漏刻の製作と時刻報知の開始を記すのみですが、発掘調査の成果から、水落遺跡の漏刻は660年5月に使われ始め、その後、近江大津宮へ移されるまでのおよそ11年間、飛鳥で使われたと考えられています。なお、「漏剋」は古文献などに見られる「漏刻」の表記です。中国では、紀元前から漏刻が用いられていました。

国立国会図書館デジタルコレクション

柱の配置に見る、高度な建築技術

さらに、発掘された柱の配置にも、他の建物とは異なる特徴が見られます。

「通常のお寺のお堂などでは、中央部分には柱が立たない構造が多いですよね。ところが、この水落遺跡では柱が等間隔に並んでいます。こうした建築を『総柱(そうばしら)』といいます」。

さらに、特徴的なのが柱の立て方だと西田さんは説明します。

「この建物の柱は、単に数が多いだけではありません。柱の立て方にも大きな特徴があります。飛鳥時代の建物には、大きく分けてふたつの柱の建て方があります。ひとつは、柱の根元を地面に埋める『掘立柱(ほったてばしら)』。もうひとつは、礎石という石の上に柱を立てる『礎石建ち(そせきだち)』です」。

水落遺跡の時計台では、飛鳥時代の建築にみられるふたつの柱の立て方が、どちらも取り込まれているということです。

「この建物では、地下に礎石を置き、その上に柱を立てています。これは、飛鳥時代の五重塔や三重塔の心柱に使われる方法と同じです。つまり、高い建物を建てるための技術が、この時計台のすべての柱に使われているということになります」。

水落遺跡の時計台では、こうした高い建物を支える高度な技術が、1本の心柱ではなく、24本すべての柱に用いられていたと考えられています。

発掘・整備直後に撮影された、水落遺跡の全景。

写真提供:古都飛鳥保存財団

塔の建築技術を用いた、堅牢な時計台

地震にも耐えるための地下構造

水落遺跡では、24本の柱のうち、北西側の地下部分だけ土を取り除き、柱の礎石を露出させた状態で見ることができます。西田さんが、そこを示しながら説明してくれました。

「この地下式の礎石は、単純に柱を支えるだけのものではありません。柱や礎石が横にずれないようにする工夫もされています」。

西田さんは、柱の下に置かれた礎石と、それらをつなぐように縦横斜めに配置された、やや小さな石を示しました。礎石同士を石でつなぎ、横方向へのずれを抑えることで、建物全体の安定性を高める仕組みです。

「大きな地震が起きた時、石というのは横方向に動こうとします。その時に礎石がずれてしまうと、建物全体が歪んでしまいます。そこで、地下に石を入れて、礎石同士が横に動かないように押さえる。こうした工夫がされているんです」。

飛鳥時代の建物に、こうした地震などによる横方向の地盤のずれを意識したと考えられる工夫が施されていることは注目すべき点です。

丸く柱座が彫り込まれた礎石。水落遺跡では建物の土台となる基壇の中に礎石を埋め込み、その上に柱を立てる特殊な構造がみられます。そして礎石の間は、小型の花崗岩の川原石でつながれています。この特殊な礎石構造は、水落遺跡が時計台であったと推定する根拠のひとつとなっています。

時計台の高さを決めた「報時」の仕組み

では、なぜ時計台には、これほど緻密で強固な構造が必要だったのでしょうか。

その理由として考えられるのが、時刻を知らせる「鐘」の存在です。

「『日本書紀』によりますと、この時計台は後の時代、大津宮(滋賀県大津市)へ移されます。その大津宮の時計台には、鐘と鼓が置かれていて、それによって人々に時を知らせていたという記載があります。

ですので、おそらくこの水落遺跡の時計台でも、2階部分などに鐘を吊り下げて、決まった時刻になると鐘を鳴らし、人々に時を知らせていたのではないかと考えられます」。

時間を知らせる鐘。その役割は、現代の「時報」にも似ています。時計が時刻を刻み、その時刻を鐘の音で人々に知らせる。飛鳥時代には、すでにこうした「報時」の仕組みが考えられていたのです。

「鐘がどのようなものだったのか、実物は出土していませんので正確なことは分かりません。ただ、研究では、現在の三井寺(滋賀県大津市の園城寺)や平等院(京都市)に残されているような、大型の鐘が想定されています。そうした大きな鐘を吊るすのであれば、当然、それを支えるための非常にしっかりした建物が必要になります」。

水落遺跡の時計台の内部を描いたイメージ。柱の太さなどから、建物の高さは9mほどが限度だったと考えられ、2階建て程度の建物だったと推定されています。このことから、下層に水時計を置き、上層に鐘などを設置していた可能性が考えられます。鐘は出土していないため、実際にどのようなものだったのかは分かっていませんが、現在のお寺で使われている梵鐘には、数百kgから数tに及ぶものもあります。

画像提供:奈良文化財研究所  イラスト:穂積和夫

柱の配置に見る、驚くべき測量精度

水落遺跡の時計台の外観イメージ。総柱風の柱配置や礎石からは、揺れを抑える堅牢な構造がうかがえます。かつては饗宴場や仏塔など諸説がありましたが、構造の検討から、精密な機械を設置・稼働させるための建物と考えられるようになりました。

画像提供:株式会社アスカラボ

さらに、水落遺跡のすごさは、構造の強さだけではありません。建物を造る際の精度にもあります。

「この建物を建てる時の精度の高さも非常に重要です。柱と柱の間隔を調べると、ミリ単位できちんと揃うように測量されていることが分かっています。精密な測量に基づいて、この建物が作られていたということです」。

現代のような測量機器がなかった飛鳥時代に、ミリ単位の精度で建物が造られていたことには驚かされます。

では、なぜそこまで高い精度が必要とされたのでしょうか。その答えを探る手がかりが、建物の中央部にあります。

「やはり、この建物に置かれていた設備がポイントになります。中央部分には、ひとつだけ柱がない場所があります。ここに水時計『漏刻』(ろうこく)が置かれていたと考えられています」。

建物の中央には現在、浴槽のような大きさの平たい石が敷かれています。実際には、地下約1mの位置に、東西約1.6m、南北約2.3mの大きな花崗岩の切石が水平に据えられていました。この石が漏刻を載せる台石となり、水時計を水平に保っていたと考えられています。

水落遺跡の時計台は、正確な時刻を測るために、あたかも建物そのものが精密な時計装置の一部であるかのような設計がされていたのです。

水落遺跡で撮影した、水時計(漏刻)の原寸大模型。現在は飛鳥資料館に展示されています。遺構から見つかった台石の大きさに合わせ、史料などを参考に復元されたものです。なお、発掘調査直後には、水落遺跡の発見を記念して、スイスの老舗時計ブランド、ロンジンの日本法人からも漏刻の復元模型が寄贈されています。

画像提供:奈良文化財研究所

水を制御し、時を測る技術

水の流れを安定させる仕組み

水時計とは、容器に水を流し、その水位の変化から時間を測る装置です。正確に時刻を測るためには、水の流れを安定させる必要があります。

単純にひとつの水槽から水を流すだけでは、水が多いときは勢いよく流れ、水が減るにつれて流れが弱くなってしまいます。そこで、水落遺跡の水時計では、複数の水槽を重ねることで、水の流れを安定させる仕組みが採用されたと考えられています。

「水槽を何段も重ねることで、水圧を一定に近づけることができます。そうすることで、水の流れる速度の変化を抑え、より正確に時間を測ることができます」。

現在、飛鳥資料館で展示されている復元模型も、こうした研究成果をもとに制作されています。

「水の流れ方については、流体力学の専門家の方にも協力いただきながら復元が行われています。考古学だけではなく、さまざまな分野の知識を組み合わせることで、水時計の姿が明らかになりました」。

中国で発達した「漏刻」の技術

唐の呂才が考案した漏刻(古今図書集成)。漏刻は、前漢末頃(紀元前後)になると、水を流し出す壺(漏壺)と受ける壺を上下に配置する方式へと発展しました。水が漏壺から流れ出ると、壺の水位が下がり、それに合わせて時刻の目盛りを刻んだ「箭」が下がります。「漏壺」と「刻箭」というふたつの要素から、「漏刻」と呼ばれるようになったとされています。

画像提供:奈良文化財研究所

漏刻とは水時計の一種であり、古代中国や日本で用いられた、水の流れを利用して時刻を測る装置を指す歴史的な呼称です。

漏刻は中国で発達し、前漢末頃(紀元前後)には、複数の水槽を組み合わせて水の流れを安定させる工夫が現れました。

水位を安定させ、より長い時間を測るため、漏刻は次第に複数の漏壺を組み合わせる方向へと発展していきました。

7世紀前半には、中国・唐で活躍した呂才が、4段式の漏刻を考案しました。最下段の壺には人形が置かれ、その手には一定間隔で時刻を刻んだ「箭(や)」が通されています。

当時の中国と日本の交流や技術的なつながりを踏まえると、水落遺跡に設置された水時計も、呂才の漏刻に近い、3段式または4段式の構造だったと考えられています。

漏刻の水の流れの仕組み。4段式の漏壺を上から下へと水が流れ、最下段の水を受ける水槽(受水槽)に水がたまることで、時間を測ります。それぞれの漏壺は導水管でつながれ、サイフォンの仕組みによって上段から下段へ水が流れる構造です。最下段の受水槽が満水になると、底部から水を排出し、再び最上段の漏壺へ水を送ることで循環させます。

画像提供:株式会社アスカラボ

飛鳥資料館の復元模型に見られる童子の人形。時刻の目盛りを刻んだ「箭(や)」を握っています。水位の上昇に合わせて箭が上下し、その目盛りで時刻を読み取ります。中国式の漏刻では、季節による昼夜の長さの変化に対応するため、二十四節気ごとに昼用・夜用の箭を使い分け、合計48本を用意したとされています。

地形を生かした水の供給システム

水を導いた高度な設備

水落遺跡では、水時計を動かすための給水・排水設備も見つかっています。

「水時計に水を流し込むためには、当然、水を建物まで運んでくる仕組みが必要になります。この建物では、地下に水を導くための水路が設けられていました」。

建物の中央に据えられた台石の上には、大小ふたつの漆塗り木箱が置かれていた痕跡が残っていました。小さい木箱は建物のほぼ中央に位置し、内寸は一辺約37cm。水時計の受水槽だったと考えられています。その周囲には、銅管や木樋を使った水路が、南北と東西にめぐらされていました。

東西に走る木樋をたどると、東から流れてきた水は水時計の桝に入り、そこでいったん堰き止められます。桝に設けられた銅管によって、サイフォンのように水を上へ送ったと考えられています。銅管から送られた水は最上段の漏壺へ供給され、使用後の水は木樋を通って西側へ排出されたと考えられています。

また、銅管の一部は木樋で覆われ、南北に一直線に埋設されて北へ延びていました。これは、さらに北側にあった別の施設へ水を導くためのものと考えられています。

この場所に時計台が建てられた背景には、こうした水の流れを地形に合わせて取り込める立地も関係していたのではないかと、西田さんは考えます。

「水落遺跡の西側には川が流れ、南側と東側には山があります。つまり、飛鳥の中心部の中でも、南と東に向かって高くなり、西に向かって低くなる地形なんです。飛鳥寺や飛鳥宮跡がある辺りに比べると、ここはかなり低い場所になります」。

「そのため、水もここに集まってきます。水を集めて利用する施設を置くには、適した場所だったのではないでしょうか。地形を読みながら、こうした施設が配置されたのではないかなと、私は想像しています」

さらに、この銅管に使われた銅は、鉛同位体比の分析から、国内で生産された銅として最古の例とされています。銅板を丸めて筒状に加工し、継ぎ目を銀を含むロウで接合したもので、管の内径は約0.9cm。こうした加工・接合技術からも、飛鳥時代の高い金属加工技術がうかがえます。

水落遺跡には、水を制御する技術だけでなく、飛鳥時代に大陸との交流の中で育まれた金属生産・加工の技術も投入されていたのです。

水落遺跡は、飛鳥時代の人々が持っていた、建築、水利、金属加工、そして時間を測る技術。その総合力が結集した施設だったといえます。

水落遺跡の中央部。台石のまわりには、水時計への給水・排水に使われた木樋暗渠の位置も復原されています。

漏刻を管理した専門職

漏刻の運営をイメージした図。水をくんだり、時刻を確認したり、鐘や鼓を鳴らしたりするなど、複数の役人が漏刻の管理にあたっていたと考えられています。

画像提供:株式会社アスカラボ

漏刻は、専門の役人によって管理されていたと考えられます。平安時代の法令集『令義解』によると、漏刻は中務省の陰陽寮が管轄していました。

陰陽寮には四等官のほか、陰陽師、陰陽博士、暦博士、天文博士などの専門職が置かれ、その中には漏刻博士もいました。

漏刻博士は、その下に属する守辰丁を率いて漏刻の「箭」を監視し、守辰丁は箭の動きを確認するとともに、定められた時刻になると鼓や鐘を鳴らして時刻を知らせる役割を担っていました。

飛鳥時代にも、同じような役割分担があったと考えられています。

西田さんは、天文学の関係についても補足してくれました。

「水時計は、時間の間隔を測ることはできます。ただ、『今が何時なのか』を知るためには、別の基準が必要になります。水時計だけでは、今何時かということは分かりません。今何時かを知るためには、太陽や月、星の動きといった天文の知識が必要になります。漏刻が作られる頃には、すでに大陸から天文学の知識が伝えられていました」。

水時計が導入される以前から、日時計も使われていたと考えられています。日時計は太陽が出ている間しか使えず、夜間や曇天、雨天には機能しません。そのため、天体の動きなどを基準に時刻を確認しながら、水時計と組み合わせて使っていた可能性があります。

また『日本書紀』によると、舒明天皇8年(636)には朝廷で決められた時刻に政治を行う制度が定められたとされ、推古天皇12年(604)には暦の本格的な施行が始まっています。年・月・日を定める暦と、時刻を測る仕組みが整えられていくなかで、時を知らせる制度も発展していきました。

660年に漏刻が造られ、定められた時刻を人々に知らせることが始まったことで、飛鳥に本格的な時刻制度が整えられていったと考えられます。

時間を測ることは、国を治めることだった

国家形成を支えた最先端技術

水落遺跡に置かれていた水時計は、単なる技術的な装置ではありませんでした。正確な時間を測ることは、国家の仕組みを整えることと深く結びついていたのです。

「水時計というのは、ただ科学的な興味から作られたものではありません。この時計を作ること自体が、日本の国づくりと非常に深い関係があったんです」と語る西田さん。

水落遺跡の時計台を築いた人物として考えられているのが、後に天智天皇となる中大兄皇子です。

「中大兄皇子、そしてその時代の天皇である斉明天皇の時代というのは、飛鳥時代の後半にあたります。それまでの日本は、豪族の力が非常に大きい社会でした。しかし、中大兄皇子は乙巳の変によって蘇我氏の力を抑え、その後、天皇を中心とした国づくりを進めていくことになります」。

大化改新をはじめとする国家形成の大きな手本となったのが、当時の東アジア最大級の国家であった唐です。

「唐では、律令という法律によって国の仕組みを整え、人々を治めていく制度が作られていました。中大兄皇子たちは、そうした唐の制度や技術を取り入れながら、日本でも天皇を中心とした国家を作ろうとしていたわけです」。

漏刻も、そうした国家形成の流れの中で導入された最先端技術でした。

「国を支配する側からすると、時をきちんと測り、決められた時刻を人々に知らせることは、社会を一定のルールの中で動かしていくことにつながります。ですから、正確な時間を測り、知らせることは、国家を運営する上で非常に重要な意味を持っていました」。

「中国や朝鮮半島から伝わった新しい技術を、天皇の周辺が取り入れ、それを実現する場所を飛鳥につくる。それは単に便利な道具を導入するということではなく、最先端の技術を扱う力を持っているということを示す意味もあったと思います」。

667年、中大兄皇子は飛鳥から近江大津宮(滋賀県大津市)へ都を移します。その際、水時計も移されたと考えられています。さらに『日本書紀』には、671年に大津宮で漏刻を用いて時を知らせていたことが記されています。飛鳥で始まった時刻制度は、遷都後も引き継がれていったのです。

江戸時代の絵師・狩野探幽が描いた天智天皇。中大兄皇子として乙巳の変に関わり、斉明天皇の時代には皇太子として、漏刻の設置など国家形成に関わる改革を進めました。即位後も、全国的な戸籍である「庚午年籍」を作成させるなど、律令国家の基盤を築きました。

狩野探幽「百人一首画帖」個人蔵

水落遺跡の発見と解明

多分野の研究が解き明かした遺跡の謎

水落遺跡発見のきっかけは、意外にも住宅建設に伴う発掘調査でした。

「この場所は、もともとは普通の田畑として使われていました。住宅を建てる予定になり、その事前調査で発掘を行ったところ、石敷や柱の跡が見つかったんです」。

しかし、その時点では、まだ水時計とは分かっていませんでした。

「最初は、水時計とは考えていませんでした。石敷と柱だけが見つかっていたので、宮殿の楼閣建築のようなものではないかと考えられていました」。

その後、史跡整備のための調査が進む中で、新たな発見が積み重なっていきました。

「銅管などが見つかり、さらに建物の構造を詳しく調べていく中で、水を使った施設ではないかということが分かっていったのです」。

水落遺跡の解明には、多くの分野の研究者が力を尽くしたと西田さんは言います。

「考古学だけではありません。建物の構造を見る建築史、水の流れを見る流体力学、『日本書紀』などの文献を読む文献史。いろいろな専門家が集まったからこそ、日本最初の時計台の謎を解くことができたのだと思います」。

1400年近く前に作られた水時計。その姿は、発掘された石や柱だけでなく、水の流れ、建築構造、文献、そして現代の科学技術による検証を重ねることで、少しずつ明らかになってきました。

「この場所を見る時に、今ある遺跡だけを見るのではなく、その下に眠っている歴史にも思いを巡らせていただければと思います。飛鳥という場所は、現在見えている景色の下にも、まだ多くの歴史が重なって残されています」。

今回ご紹介した場所

国指定史跡「飛鳥水落遺跡」

所在地

〒634-0142

奈良県高市郡明日香村大字飛鳥

アクセス

近鉄「橿原神宮前駅」から奈良交通のバスを利用。「飛鳥」周辺から徒歩でアクセスできます。明日香村内は周遊バス「赤かめ」も運行しています。

見学情報

水落遺跡は屋外の史跡であり、いつでも見学できます。

漏刻の復元模型や関連資料を詳しく見る場合は、近隣の飛鳥資料館がおすすめです。

飛鳥資料館公式ウェブサイト

https://www.nabunken.go.jp/asuka

今回、水落遺跡をご案内いただいた専門家

西田 紀子(にした のりこ)さん

奈良文化財研究所 飛鳥資料館 学芸室長/文化遺産部 上席研究員

専門は建築史。東京大学工学部建築学科を卒業後、同大学大学院で建築学を専攻。2002年に奈良文化財研究所に入所し、飛鳥資料館や平城宮跡などの調査研究に携わってきました。現在は飛鳥資料館の展示・研究に加え、古代建築の復元研究にも関わっています。