【奈良・明日香】1300年前の星空へ。「キトラ古墳」天文図について、多摩六都科学館・髙柳雄一館長に聞く

奈良・明日香村のキトラ古墳。その石室の天井には、1300年以上前の飛鳥時代に描かれた、金箔の星々が輝く精密な天文図が残されています。天の北極を中心とする星の配置や、二十八宿と呼ばれる星の区分など、中国古代の天文学に基づく貴重な記録です。

なぜ古代の人々は、墓の天井に壮大な宇宙を描いたのでしょうか。

多摩六都科学館の髙柳雄一館長は、この天文図を、過去の人々の世界を現代に伝える「タイムカプセル」と表現します。その学術的価値や、飛鳥時代に受け継がれた天文学の水準、古代の人々と星空や暦との関わりについて伺いました。

690年代末〜710年代頃に築かれたと考えられるキトラ古墳の石室の天井に描かれた天文図。外規(星が見える範囲の境界を示す外周の円)の直径は約61cm。現存する本格的な中国式天文図として、世界最古の例とされます。

画像提供:飛鳥管理センター(レプリカ撮影)

星の配置に刻まれた、古代中国の天文学

――キトラ古墳の天井に描かれた天文図は、どのような点が画期的なのでしょうか?

キトラ古墳の天文図は、本当に驚くべきものですよ。

漆喰を塗った石室の天井に、金箔で星が留められているんです。丸い金の星が朱の線で結ばれ、中国の星座が描かれています。さらに、中国の人々が星空を見るときに使っていた「天の赤道」も描かれています。地球の赤道を、そのまま夜空に延長したような線ですね。それから、地球の自転軸をずっと延長した先にある、天の北極を中心にした美しい星の世界が、ちゃんと描かれています。

つまり、キトラ古墳の天井には、単に星が描かれているだけではなく、当時の人々が星空をどのように捉えていたのか、その考え方まで描かれているんです。それを見て、これはすごいなと思いました。

しかも、金で描かれた星の配置を見ると、私たちが知っている星座も出てくる。例えば、冬の星座で有名なオリオン座。西洋の星座として知られているものが、中国の星空の中にもちゃんと描かれています。

天文図の南方に描かれたオリオン座。中国天文学の二十八宿では、頭部に位置する3つの星から成る觜宿(ししゅく)と、両手・両脚、そして腰の三つ星を含む7つの星から成る参宿(しんしゅく)で構成されています。

画像提供:奈良文化財研究所 ※転載禁止

――中国と西洋では星座の捉え方に違いがあったのでしょうか?

はい。西洋の星座は、星と星を線で結んで人や動物の姿に見立てるけれど、中国の場合は、星をいくつかのまとまりとして考えていました。その星の集まりには、それぞれ役割があります。

地上に天子がいて、お役人がいるように、天にも天帝がいて、その周りに役割を持った星があると考えました。こうした役割を持つ星の集まりを「星官(せいかん)」と呼びます。

そして、その星官の中でも太陽の運行で暦と深く関わる赤道付近の星官を「宿(しゅく)」と呼んで、中国では二十八の宿、つまり「二十八宿」を定めていました。

キトラ古墳には、その二十八宿がきちんと描かれています。

キトラ天文図の模式図。約350個以上の星を金箔で表し、朱線で中国の星座や天の赤道、黄道などを描いています。

画像提供:奈良文化財研究所

さらに驚くのは、その配置が非常に正確であること。昔の中国では、天の赤道を基準にして、星がどれだけ離れた場所にあるかを記録していた。キトラ古墳の天文図は、その観測データに基づいて描かれています。

だから、二十八宿も正確に配置されているし、私たちが星占いでよく知っている西洋の十二星座も、かなりのものがそこに顔を出しています。

例えば、さそり座。これを中国の二十八宿に分けて見ると、さそり座がひとつのまとまりとして描かれているわけではなく、三つに分割されている。つまりさそりの胸や心臓、尾のあたりが、それぞれ別の宿として捉えられているのです。「房宿」「心宿」「尾宿」というように分けて考えられている。

てんびん座など、ほかの星座についても、二十八宿の中では分けて描かれているものがいくつかあります。西洋の星座とは違う考え方で同じ星空を捉えているところが、すごいなと思いましたよ。

キトラ古墳のこの狭い天井の世界の中に、今の私たちが見ても分かる星々が、しかも科学的な方法で描かれているんです。

天の北極を中心にするというのは、現代の天文学者が星を調べる時にも使う考え方です。それほど高度な星の記録が、中国の文化として飛鳥のお墓の天井に残っていた。これは本当に驚くべきことだと思います。

東方に描かれた、さそり座の心宿部分。心宿は一等星アンタレスを含む3つの星、房宿は4つ、尾宿は9つの星で構成されています。

画像提供:奈良文化財研究所 ※転載禁止

敦煌と飛鳥に見る、古代の知のつながり

――キトラ古墳の天文図が、世界的にも貴重とされるのはなぜでしょうか?

二十八宿が描かれた古墳は、実は日本では、キトラ古墳が見付かる前に、高松塚古墳でも見つかっているんです。

僕は高松塚古墳の星空が発見されたとき、NHKのラジオ番組で「科学千一夜」という、科学の話題を取り上げる短い番組を持っていました。そこで高松塚古墳の話を取り上げたいと思って、中国科学史の専門家で京都大学の薮内清先生という方に話を聞きたいと思った。それで「古墳の中の星空」というタイトルで番組を提案したら、ありがたいことに通りましてね。録音機を持って薮内先生のお宅へ伺いました。

そこで分かったことが、中国の昔の人たちが描いた星図というものが、今の科学につながっているということです。先ほど申しましたように、現代の天文学者も、星空を描く時には天の北極を中心に置きます。そういう専門家が使うような星図が、高松塚古墳に続いてキトラ古墳から見付かった。これはすごいことなんですよ。

高松塚古墳の星宿図。漆喰を塗った石室の天井に、金箔で表した72個の星を朱線で結び、中国の二十八宿として描いています。ほぼ同時代のキトラ古墳よりやや後の694〜710年頃に築かれたと考えられます。

画像提供:古都飛鳥文化財団(レプリカ撮影)

高松塚星宿図の模式図。キトラ古墳が約350個の星と天の赤道・黄道まで描いた実測的な全天図であるのに対し、高松塚古墳は、天帝の宮殿を表す星々を中心に据え、その周囲に二十八宿を配した構成が特徴です。

画像提供:奈良文化財研究所

中国から見れば、日本は当時、辺境でしょう。しかも、キトラ古墳に描かれた天文図は、中国で観測された時代から随分と時間が経っていると考えられています。それだけ時間が経っているのに、昔の観測データがきちんと伝わって、残っている。これは本当にすごいんですよ。

中国でこうした星空の観測が行われたのは、おそらく唐の都・長安、現在の西安のあたりでしょう。長安は昔から文化や学問が栄えました。

ところが、中国国内ではその観測記録は戦争で破壊されたりして、ほとんど残っていません。

唯一、中国で観測データが残されている場所として有名なのが、敦煌(とんこう)です。

敦煌の遺跡からは多くの古文書が見つかっていて、その中に西安で観測された夜空の記録が残っています。

そして、面白いことに、もう一箇所見付かったのが、日本列島の明日香。飛鳥の古墳の天井に、その星空の記録が残っている。こんなことは、そう簡単には起こらない。本当に、明日香にはすごい星空の記録が残っていたんですよ。

敦煌の古文書に残された星図。唐の中宗皇帝(705-710年)の治世頃に描かれたと考えられる、現存最古級の完全な星図。12枚の天域図と北極域の図から成り、257の星群に属する1345個の星が描かれ、二十八宿も含まれています。

敦煌の星図のうち、天の北極を中心とした北極域を示す部分。144個の星が描かれ、中国独自の星座体系が配置されています。高松塚古墳天文図と同じく、中央には天帝の宮殿を表す「紫微垣(しびえん)」が据えられています。

星空に託された、故人の生きた時代の記憶

――古墳の中という狭く限られた石室の空間に、なぜ壮大な宇宙が描かれたのでしょうか。

高松塚古墳の中には、きれいな壁画が描かれているでしょう(編注:高松塚古墳からは、華やかな衣装をまとった人物群像などの、極彩色の壁画が描かれています)。ああいうふうに、お墓の中を装飾して美しくする。亡くなった人を尊び、そして残された人たちがその人を慕う。そういう古墳の作り方というのは、おそらく朝鮮半島を経由して日本にも入ってきたものだと思います。

高松塚古墳では壁面に絵が描かれていて、天井には星空が描かれている。

キトラ古墳も同じです。

たぶん、あんな精密に描かれているということは、そこに葬られた人は相当重要な人物だったんでしょう。その人が生きていた時代の夜空は、こういうものだったよ、と。そういうことを残そうとしたんじゃないかな。

例えば、天の北極が中心にあって、四方には方角がある。その方角が分かるように、星空と対応して四神の姿も描かれている。

つまり、きっとその貴人の生きていた時代の思いをこの世に取っておこうとしたんでしょう。それで、お墓を見た人が、「あ、この人はこんな人だったんだ」とかね。

星空を見ると、専門的な知識があれば、いつ頃のものかまで分かる。だから、「あぁ、この人が生きていた時代の星空はこうだったんだ」ということを後世の人が偲べるわけですね。

いや、すごいことをやっていたと思いますよ。

キトラ古墳の四神壁画。右上から時計回りに、東壁に描かれた青龍(青い龍)、南壁の朱雀(赤い鳳凰)、西壁の白虎(白い虎)、北壁の玄武(亀に蛇が巻き付いた神獣)。中国で生まれた四神思想に基づき、四方を守護する神獣として、それぞれ対応する方位に描かれています。

画像提供:飛鳥管理センター(レプリカ撮影)

――その方が生きていた瞬間の星空が、そのまま石室の中に写し取られているということですね。

「時の旅」という言葉があると思うけれど、大事なのはそこなんですよ。

旅というのは普通、空間を移動することを言う。でも、時間は、じっとしていても進んでいく。ということは、人間は何もしなくても、時間の中を旅しているんですよ。過去から未来へね。

そういう人の世界が、自分たちにつながってくる。見る人にちゃんと伝わる。たぶん、それを意識して作った、人間の文化のひとつのスタイルだと思います。

今はきれいに復元されて、元の姿に戻されて、古墳の形として再現されていますよね。

だから、自分たちが生きていた世界を、ある形で立体的に保存したタイムカプセルになっていると思います。

キトラ古墳石室の原寸大レプリカ。円墳の中央の地表から約2mの地下に設けられた凝灰石の石室は、長さ2.4m、幅約1m、高さ約1.2mという人ひとりが納まるほどの空間。石室からは熟年男性1人の人骨のほか、漆塗り木棺の破片、金銅製の棺金具や装飾金具、金銀の刀装具、琥珀玉や鉛ガラス玉などの副葬品が出土しています。

画像提供:飛鳥管理センター(レプリカ撮影)

飛鳥における時間と暦の管理

――キトラ古墳の星図が描かれた当時、日本ではどのように時間や暦を管理していたのでしょうか。

当時の人たちの生活時間がどうだったかという細かいことは分からないけれど、「木簡」という文字を書き残した木の札を見ると、年月日がきちんと記されている。ということは、ちゃんとした公的な暦があって、それに従って生活していたと思います。

時間の長さについては、水落遺跡へ行くと漏刻(※ろうこく、水時計のこと)があって、そこで時間を測っていた。日の始まりや終わりは、日の出や日の入りで分かっていたでしょう。

でも、季節の始まりというのは、もっと天文的に決める必要があります。

「夏至」や「冬至」というのは、「至る」という字を書くでしょう。太陽が日の出の位置でいちばん北に寄ったとき、あるいは南に寄ったとき。

そして、真東から太陽が昇り、真西に沈むのが春分と秋分。

それが季節の変化を示している。

この四つの起点がきちんと分かれば、あとは暦を当てはめて使うことができる。暦というのは、実はそういうものなんです。

日にちを一日(ついたち)、二日(ふつか)、三日(みっか)と数えますよね。「こよみ」という言葉も、日を読み数える「日読み」(古い読み方は「かよみ」)が転じたと言われているんです。

夏至が近づいているか、春分はいつなのか、秋分はいつなのか。

飛鳥にも、そういう大事な起点を観測する専門職の人がいたと思います。

中国の暦を使えば、生活には困らない。もっと言えば、支配者にとっては、みんなが同じ時間を共有しないと社会が動かない。人間は仲間と仕事をするわけだから。時間の管理や共有というのは、ものすごく大事な仕事だった。

だから役所の中に専門的な部署があって、制度として管理していたと思います。お役人の給料だって、何時間働いたかということを管理して決めていたわけでしょう。漏刻で「仕事が終わったから帰っていい」と決めていた。いや、厳しかったと思いますよ。

キトラ古墳から約4キロの場所にある飛鳥・水落遺跡。キトラ古墳が築かれる約40年前の660年、中大兄皇子(のちの天智天皇)がここに日本初の漏刻(水時計)を造ったと『日本書紀』に記されています。

写真提供:古都飛鳥保存財団

キトラ古墳から未来への『時の旅』

――先生ご自身は、どのような視点で飛鳥時代の天文学と向き合ってこられたのでしょうか。

いや、面白いことがあってね。

昔、松本清張の『火の回路』という小説を読んだことがあるの。それは、ゾロアスター教(※古代ペルシャで生まれた宗教。光と闇の対立を重視し、光の象徴として太陽や火を尊ぶことから「拝火教」とも呼ばれる)が飛鳥の文明に影響しているという仮説のもとに、ある出来事を追いかけた、すごく面白い小説でね。

その後、NHKで『太陽と人間』という番組を製作した時に、イランへ行って、イスファハンとかペルセポリスとか、実際にイランのそういう遺跡を見てきました。イランはいまだに太陽暦を使っていますよね。

こうした経緯で、至点・分点を観測した場所があるんじゃないかと思って、昔、アストロアーケオロジー(天文考古学)を専門とする先生と一緒に奈良へ調べに行ったことがあります。

まずは橿原の「益田岩船(ますだのいわふね)」っていうんだ。丘の上に突出した大きな石。そこから日の出がどういうふうに見えるのか、ストーンヘンジみたいに太陽の動きを意識した配置にしているのかどうか、興味を持って調べに行った。

益田岩船。奈良県橿原市の貝吹山東峰に残る飛鳥時代の巨大石造物。東西約11m、南北約8m、高さ約4.7mに及び、重さは約800トンともいわれます。上面には2つの方形の穴と溝が刻まれていますが、その用途はいまだ明らかになっていません。

それから「酒船石(さかふねいし)」も見に行った。石の表面に何本か角度のついた溝があるから、「この溝には至点・分点と関係があるんじゃないか」と思って調べたんだけど、違っていましたね。

酒船石。奈良県明日香村の飛鳥宮跡近くに残る飛鳥時代の謎の石造物。長さ約5.5m、幅約2.3m、高さ約1mの花崗岩を加工したもので、表面には溝やくぼみが複雑に刻まれています。酒造りや薬の精製、祭祀に用いた装置など諸説あるものの、用途は現在も明らかになっていません。

それから興味深いのが、奈良の宇陀市で毎年、冬至の頃に行われている「かぎろひを観て万葉を偲ぶ会」です(編注:かぎろいとは、冬に見られる、日の出の1時間ほど前に空が赤く染まる自然現象のこと)。「東の野に かぎろひの立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ」という柿本人麻呂の歌にちなんだものです。

この歌が詠まれた日は、国立天文台なども関わって調べられていて、旧暦11月17日とされている。今の暦でいうと、冬至の頃にあたります。冬至の日の出を、やっぱり尊んでいた名残なのかなと、ちらっと思っています。冬至のときの光って、お日様が復活する象徴だからね。

昔から人間は、星や太陽に興味を持っていたんですよ。

そういう視点で見ることが面白いと思う。

中国で観測された星空の記録が、数百年の時を越えて、日本の飛鳥まで伝わっている。そして、それからさらに1300年以上経った今も、私たちはその星空を見ることができる。人間が時間を記録し、伝えてきたものが、飛鳥の古墳の中に残っているんですよ。

皆さんにはぜひ、明日香へ行って夜空を見てほしい。

自分たちが今見る夜空で、自分の知っている星座が、キトラ古墳の中ではどのように描かれているのか。

キトラ古墳に描かれた星空を重ね合わせながら、実際に明日香で今の夜空を見る。

そして、「いにしえの人は、この星空を見て何を考えていたんだろう」と想像してみる。

そういう楽しみ方ができると思いますよ。

キトラ古墳は直径約13.8m、高さ約3.3mの円墳。高松塚古墳の壁画発見から11年後の1983年、古墳として調査が行われ、墳丘の頂部から約1m地下に石室が見つかり、内部から四神や天文図などの壁画が発見されました。

画像提供:飛鳥管理センター

今回ご紹介した場所

国指定特別史跡「キトラ古墳」

所在地

〒634-0143

奈良県高市郡明日香村阿部山

アクセス

近鉄吉野線「飛鳥駅」から徒歩約20分。明日香村内は周遊バス「赤かめ」も利用できます。

見学情報

キトラ古墳の麓にあるキトラ古墳壁画体験館「四神の館」では、原寸大石室レプリカや高精細映像で天文図や四神壁画を見学できます。

公開期間を限定して本物の天文図や壁画も公開されています。最新の公開情報は文化庁・四神の館の案内をご確認ください。

キトラ古墳壁画体験館「四神の館」公式サイト

https://www.asukabito.or.jp/spot_8.html

今回、キトラ古墳についてお話をうかがった専門家

髙柳 雄一(たかやなぎ ゆういち)さん

多摩六都科学館 館長

東京大学理学部物理学科卒業。同大学院修士課程修了後、NHKで科学教育番組のディレクターを務め、BBC出向やNHKスペシャル番組部チーフプロデューサー、NHK解説委員を歴任。高エネルギー加速器研究機構教授、電気通信大学教授を経て、2004年より現職。2008年、文部科学大臣表彰「科学技術賞(理解増進部門)」受賞。2014年から文化庁・奈良文化財研究所・国立天文台によるキトラ天文図研究会に参加し、『キトラ古墳天文図星座写真資料』の執筆を通じて、その価値を広く伝える役割を果たしました。多摩六都科学館では高精細画像を用いて、キトラ古墳に関するプラネタリウム上映なども実施しています。